回想 中学時代の夏

コスプレ

いい歳して、また私は体操服に袖を通してしまった。洗いざらしの白い生地に腕を通すと、遠い記憶がじんわりと蘇ってくる。あの頃への郷愁と複雑な感情。でも、なんだかとても気持ちが落ち着くのだ。まるで慣れ親しんだ拘束具に再び拘束されたかのように。

「ああ、いい歳して私は何してんだろう」

鏡に映っているのは中年女のミキ。今の年齢には違和感しかないレトロな体操服姿。首と腕周りをキュッと締めつける紺色の縁取りライン。左胸には校章。下は今では見かけない紺色ブルマ。私は今夜も鏡の前でうっとりしている。

私の体操服への執着の原因は、遠い中学二年の夏にさかのぼる。うだるような暑さが肌を焦がす毎日だった。体育の授業が終わると、私たちは汗でぐっしょりになった体操服のまま、教室へ戻るのが常だった。令和の今では信じられないだろうけど、当時の中学校には着替えなんていう概念はなかった。体操服は制服代わりであり、活動着であり、そして日常着。あの頃の私たち、昭和末期の田舎町では当たり前だったのだ。

窓から風の入る教室で、体操服姿のまま受ける午後の授業は、制服からは解放されて涼しかったが、体操服という別の拘束衣を強制されていることに当時の私たちは無自覚だった。汗をかいた肌に張り付く綿の生地の感触、首と腕周りをキュッと締めつける紺色ライン、左胸の校章と番号の入ったゼッケンは、微かながらも逃れられない支配を暗示しているようだった。

もちろん部活も学校指定の半袖体操服とブルマー姿。本当はもっとお洒落なTシャツを着たかったけれど、校則は拘束だ。全員が同じ格好でボールを追いかけ、声を出し、汗を流す。当時は部活は強制参加だったから、放課後は体操服姿しか見ない。

掃除の時間も体操服。当時はとにかく体操服姿になる機会が多かったのだ。

部活が終わると、私たちは夕焼け空の下、汗と土の匂いを混ぜた風を感じながら、自転車のペダルを漕いだ。家に着けば、帰宅時の体操服のまま食卓につく。テレビを見ながらゴロゴロする時間も、風呂に入るまでのリラックスタイムも、汗をかいた肌に張りつく体操服の感触が常に私を支配する。

風呂から上がると、「どうせ明日も着るんだから体操服で寝なさい」と自分が洗う洗濯物の数を出来るだけ減らしたい母が言う。そして洗い立ての体操服に再び身を包む。下着の上にブルマーを穿き、半袖体操服を着る。丸首の紺色ラインは首輪のようだ。常に鎖に繋がれていることが当然であるかのように眠りにつく。胸には校章がプリント、家で寝ている時も支配されている刻印。プライベートな時間まで体操服で過ごすなんて、今思えば異常だけど当時は当たり前。私はこの私生活も支配されることに快感も感じていた。

朝、目覚まし時計の音で跳ね起きると、体操服の上にセーラー服を羽織るだけで準備完了。楽チンだった。スカートの下は当然ブルマーだ。体育の着替えの手間を省くためという理由もあったけれど、当時の私たち女子にとって常時ブルマーは常識。それ以外の選択肢など考えもしなかった。まるで呼吸をするのと同じくらい自然に、私は体操服生活を受け入れていたのだ。

「でも、休日はさすがに私服を着るんでしょう?」

ふふ、甘いわね。昭和の管理教育を甘く見ないでね。当時は休日も部活動があったの。休日とは、体操服の上にセーラー服を羽織る必要がない、ただそれだけの違い。朝から夕方まで体育館でボールを追いかけ、へとへとになって帰宅。風呂上がりに翌日用の新しい体操服に着替え、その拘束衣に身を包んで眠る。まるで体操服で調教されているかのような日々。

そして、あの蒸し暑い終業式の日を迎えてから「体操服生活」は頂点を迎えた。制服を着る必要がなくなった私たちは、朝から晩まで終日体操服だけで過ごすようになった。

夏休みも、ほぼ毎日部活。もちろん練習中は体操服。汗だくになる真夏は着替えは持参していたけれど、Tシャツ禁止なので着替えるのは同じ体操服。休憩時間に麦茶を飲みながら友達と話したのは・・・

「この一ヶ月間は体操服以外の服は着ていないよ」

「部活オフ日も私服を一回も着ていないし」

今思えば異常だけど、当時はみんな違和感なかったのだ。

部活オフの日。家で宿題をしたり、漫画を読んだり、ぼーっと空を眺めたり。せっかく私服をチョイス出来る日なのに、なぜか無意識に体操服を着ていた。やっぱり楽なのだ、自分で服を選ぶとかお洒落を考えなくてよい。強制されて全てを学校に委ねることの心地よさ。それは抵抗することを諦めた者に与えられる、麻薬のような安堵感。体操服が自然体になってしまっていた。私たちは完全に調教されて、見えない鎖に繋がれることに快感を覚えていたのかもしれない。

それまで、特に体操服が好きだったわけではなかった。むしろダサくて嫌いだった。しかしあの夏、文字通り四六時中体操服を強制された体験が、私の内面を変えてしまった。体操服は私の青春そのものになった。汗と努力と仲間との絆。そして、抵抗することを諦めた先にあった奇妙な安堵感。それら全てが体操服には刻まれている。それは強制と快感が混ざり合った記憶。

あの夏、私は知らず知らずのうちに体操服姿で調教されていたのだろう。強制の先にある快感を知ってしまった。だから今もこうして体操服に袖を通してしまうのだ。

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